2020年3月26日付東洋経済オンラインの記事で「 東京の若者に「風呂なし物件」がじわり人気の訳| 溺愛されるのにはワケがある | 」という記事があった (URL:https://toyokeizai.net/articles/-/338399)。

もちろん目に飛び込んできた瞬間にチェックした。
ご覧いただけるとわかるのだが、風呂なしは風呂なしでも往年の文化住宅ではなく、リノベーションした風呂なし住宅やシェアハウスが取り上げられている。

不動産会社も地域の銭湯とタイアップして風呂なし物件を広めようと活発なようである。

筆者は将来文化住宅のオーナーになることが夢だが同記事を読むと悲しさが襲ってくる。
ビジネス臭に飛びついて風呂なし物件を守るのではなく、風呂なし物件に住む人々の貧しくも逞しく人間の本質的な温かさを守るために物件を維持する。それが風呂なし住宅のあり方だと考える。

写真の文化住宅においてもそうである。
大阪を襲った台風の影響であろうか、二階部分の損傷がひどい。
階段も崩れるのではないかという老朽化具合だが筆者の調べたところでは人がまだ住んでいるようだ。

横から見ると損傷具合が鮮明になる


修繕という現実に目を背けているだけに思える。
居住の安定性や快適性は皆無だろう。
だが、文化住宅を欲している住人がいるからこそ潰すに潰せないといった状況だろう。

なんかこう、硬派な文化住宅というか、硬派な生活はどこへ行ってしまったんだろう。

筆者はいわゆる西成地区出身、漫画じゃりン子チエのような状況で育った。
街や会社で出会う人常識とは違う雰囲気であり同じ大阪とは思えないような価値観や倫理感がある。

都会での息苦しさや自分の無気力感を味わうとふと故郷西成の文化住宅を思い出す。
自分より下の者を振り返って安心感を覚えるためではない。
この過酷な生活でも幸せを感じ必死に生きている様に元気をもらうのである。

文化住宅はそんな硬派な場所であってほしいと筆者は祈る。